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普通であることの凄さ~母の幸せについて

母の死

 樺沢さんの3つの幸福をもとに、2年前に90歳で亡くなった母の幸せについて考えてみました。
 私が在宅介護した母のエピソードを交えながら、「普通であることの凄さ」というお話をします。

 2019年7月26日、私は在宅介護していた母親を自宅で看取りました。   
 3年程の介護期間でしたが、最後まで病院に入院することもなく、最期
の1週間は殆ど目覚めることもなく、静かに逝きました。
 当日の朝、私がゴミ捨てに行っている間に息を引き取りました。
 最期の言葉を交わすこともなく、余りにあっけなく死は訪れました。

 1983年7月27日、母は50代半ばで私の父である夫を亡くし、父の代わりに一家を支え続けてきました。
母は、穏やかで地味な普通の人でしたが、苦労している様子を外には出さない芯の強さを持っていました。
 夫亡きあと丸36年、一日のずれもなく、しかしあと一日後の夫の命日ではなく逝ったところに、母の強い意志が感じられました。
 享年90歳。息子の私がいうのも何ですが、見事な普通の人生だったと思います。
 普通であることがいかに凄いことか、私は思い知らされました。

 身近な人の死は、色々なことを考えさせられます。
 母は傍から見ると、苦労の連続だったように見えましたが、幸せだったのだろうか、とか、特に趣味があるわけでもなく何を生きがいに生きていたのだろうか、とか、自分の人生に悔いはなかったのだろうか、とか。残された者はあれこれと思いを巡らし(めぐらし)ます。

普通の人生

 勿論、生前母と幸せについて話したこともありませんし、今となっては母の心待ちを知ることもできません。
 私がイメージする母はとにかく普通だったということです。
 特に何の取り柄もなく、65歳まで外で働き、その後も認知症になるまで20年以上家事をやり続けました。

 この何の変哲もない普通の人生をやりきった母が、生前には全く思いませんでしたが、今の私には妙に輝いて見えます。
 私には到底母のような普通の人生は歩めません。
「なにか生きがいを持って生きたい」とか「悔いのない人生を送りたい」とかを渇望して、私はいまを生きてます。
 
 結局その先にあるのは、一人ひとり違いますが、「幸せとはなにか」ということなのでしょう。
 母の普通であることを全うした人生が幸せであったかどうかは、私には分かりません。でも、決して不幸せではなかったと、今は思えます。