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まだ若くても、明日死んでもいい準備

終活を意識する

 私が漠然と終活を意識するようになったのは、55歳を過ぎた頃ですから、いまから10年近く前になります。
 その頃、終活という言葉がやっと世に出てきましたが、当時は「シュウカツ」と言えば、殆どの人が「就活」をイメージしました。
 かく言う私も、自分の終活を考えるという意識はありませんでした。
 ただ、自分がいつの日か旅立つとき、「私の胸中に去来するのはどんな思いだろうか」
 そして「自分の人生でやり残したことはないのか、人生を後悔することなく生きてきたのか」というような漠然とした自問自答から始まったように思います。   
 その後私は自分の過去を振り返り、「人生の棚卸し」をしたことをきっかけに、少しずつ終活を実践するようになりました。

 最近、私がデイサービス管理者だった時の男性スタッフがガンで亡くなりました。
 2年間の闘病生活でしたが、33歳の若さでした。
 同年代の若者には珍しく律儀で素直な性格は、お年寄りの誰からも慕われ、スタッフ間でも信頼の厚い好青年でした。
 彼は主治医から余命宣告をされていましたが、一番仲の良かったスタッフの友人とは亡くなる3日前までメールでやり取りをしていました。
 最期まで取り乱すことなく、自分の容体を知らせてきたそうです。
 ただ、本人の胸中を察すると、胸がつぶれる思いです。
 身近な人の死、特に若者の死に接すると、言い知れぬ思いに駆られます。
 『人間、いつ死ぬかはわからない』 

終活が身近になった

 現在私は一般社団法人「終活協議会」の終活ガイド認定講師など、終活に関連する活動をやらせていただいてます。 
 昨年2019年に在宅介護していた母を自宅で看取ったことで、より終活が身近なものになりました。
 母亡き後、色々な行政手続きを行い、母の衣服など膨大な私物を処分しました。
 親族の死後、家族が行うこれらの大変さは実際経験してみないと分からないものでしょう。

 自分の死後の面倒をみてくれる人がいる場合はまだいいですが、おひとりさまでは、誰かが肩代わりしてやらなければなりません。
「家に放置したままの家財や衣服は誰が片付けるの?」
「何の準備もしていないまま、最期のときを迎えても後悔しない?」
「誰かがやってくれるから、それでいいや」等々。

 遺された家族が処分に困るものに写真があります。
 今はスマホの中に写真データをストックしますが、以前はどこの家でも何冊ものアルバムがありました。
 思い出の写真は家族の心情からすると捨てがたいものですが、私は最低限残しておきたい写真を選びデータにした後、すべて処分しました。
 そして、これを機会に私自身の子供の頃からの写真も同じようにすべて廃棄しました。

 残される家族に迷惑をかけないため、60歳を過ぎたら、明日死んでもいい準備を始めることをお勧めします。
「いつかやろう、そのうちやろう」と先延ばしにしてしまうのはダメです。
 では、一体どこから手をつければいいのか。
 すべてを完璧に準備するのは無理です。重要なのは、何を今やればいいのかを見極めることからです。
 まずは、身近な家の片づけから実践してみましょう。
 写真整理など家族では片づけにくいものから、整理をはじめてみるのはいかがでしょうか。